皆さん、こんにちは!
突然ですが、千利休と言えば、茶道を完成させた人として、学校の歴史の授業でも習うと思います。
織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。
そんな千利休の経歴やお茶に対する思い、何故切腹を命じられたか等、利休の生涯についてご紹介していきたいと思います。
裕福な家庭に生まれる
“和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。
家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。
若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。
堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。”
(引用元:Wikipedia)
千利休は堺の裕福な豪商に生まれました。父は堺で高名な商人であり、利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道にります。
18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(たけの じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開きます。
※当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地でもありました。
堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国でした。
そして多くの商人は同時に優れた文化人でもあったのです。
また、武野紹鴎は侘茶の創始者:村田珠光(むらた じゅこう)を心の師と仰ぎました。
茶の湯の目的を人間としての成長とし、茶会の儀式的な形よりも、お茶と向き合う者の精神を重視しました。
大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していくのです。
武野紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を賞賛するのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めました。
そして精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めたのです。
利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大していきました。
また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品でしたが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選びました。
※「枯淡閑寂」とは、もの静かでどことなく寂しげな境地、あるいは色彩感を否定したような枯淡な趣(おもむき)の事を指します。
利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年の時を経て侘び茶を完成させたのです。
なぜ信長と秀吉に気に入られたの?
千利休はあくまでも茶人です。
その茶人がなぜ、時の天下人達に気に入られたのでしょうか?
それは、信長・秀吉が「茶の湯」をとても大切にしていたからです。
信長は戦いしか知らない武将達にも、茶の湯を勧めたほどです。これには、お茶を通し教養を身に着けて欲しいという信長の願いがあったからです。
加えて、新しい物好きだった信長は茶道具にもこだわりを持っていたので、茶道をとても大切にしていた事がわかります。
時代が流れ、秀吉の代になると益々秀吉が「茶の湯」に力を入れたので、千利休はお茶の世界でリーダー的な人物になっていきました。
「秀吉に意見を言えるのは、利休しかいない」と言われるほどに、力を持つようになりました。
このように、信長・秀吉という2人の天下人に気に入られながら、利休は「茶道」を完成させていったのです。
利休のすごさが、伝わってきますね!
もう一つ、千利休の凄さを表すエピソードがあります。
それは、信長が大きな軍艦を作った時です。
信長は家臣達に「すごいだろう!!」と自慢していました。
家臣達は信長に逆らい下手な事を言うと、殺されてしまうとわかっていたので、言えませんでした。
確かに軍艦はすごかったので、みんな信長に合わせていました。
しかし! 利休だけが「いまいちですね」と言いました。
その場にいた家臣達は、「利休も終わったな」と思ったそうです。
信長は「何がいまいちなんだ?!」と利休に問い質した所、利休は「色がいまいちです。すべて黒く塗った方が良いでしょう」と言いました。
すると信長は「採用!!」と即決し、本当に軍艦をすべて黒く塗り直したのです!
当時の信長に意見するなんて、死を覚悟するぐらいの事かと思いますので、このエピソードからも当時利休が信長に気に入られていた事がわかりますね!
まとめ
利休の凄さはまだまだありますので、2回に渡ってご紹介しますね。
しかし、これだけでも、当時の天下人であった信長・秀吉に意見出来るほど、利休は権力を持っていた事になりますし、その分大切にされていたんでしょうね。
では、これだけ気に入られていたのに、何故切腹を命じられたのでしょうか?
その辺りも、次回詳しくご紹介します。
コメント
コメント一覧 (2件)
和空間たしなみ 山田と申します.
何時も感動して,見ていてすます.
貴方様の知識はどの様に取得された、お教え頂けば幸いです。
山田様
こんにちは。
「いつも感動します」とのお言葉、大変恐縮に思います。
私の知識は50%は茶道の先生から、残りの50%は自分でインターネットや本などを調べて習得しました。
これは私の先生が言っていた言葉なのですが、「たとえどれだけ位の高いお免状を持っていたとしても、知識を学ぶのに終わりはない。私も、まだまだ学ばなければならない事がたくさんある」と。
40年以上、茶道を教えていた先生でさえ「まだ学ばなければ」と仰っていたので、それに比べれば私の知識なんて本当に小さな豆粒みたいなものです。
ですが学ぶ事を辞めてしまった時点で、自分の成長は止まってしまいますよね。
自分の成長の為にも、これからも貪欲に様々な知識を習得していこうと思っています。
お互いに頑張りましょう!
管理人 抹茶子