千利休の生涯と確立させた「わびさびの心」-Part2-

こんにちは!

では前回に引き続き、千利休の生涯や何故切腹を命じられたのか、についてお話していきます。

 

信長に仕えた利休

 

当時、堺を自分の直轄地にしていた織田信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、

今井宗久(そうきゅう)津田宗及(そうぎゅう)千利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用しました。

そして信長の家臣達は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがりました。

彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ることなので、必然的に茶の湯の指南役となる利休は、一目置かれるようになりました。

 

しかし信長は、家臣だった明智光秀の手により本能寺の変で殺されてしまいます。

この時、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催されましたが、明智光秀の謀反により、

多数の名茶道具が信長と共に炎の中に散っていきました。

 

 

信長以上に熱心だった秀吉

織田信長の死後、後継者だった豊臣秀吉に仕えた千利休ですが、秀吉は信長以上に茶の湯に熱心でした。

また秀吉の家臣たちも茶の湯に熱心だった為、みんなこぞって利休に弟子入りしました。

その中から利休七哲と呼ばれる、高名な弟子も誕生しました。

※蒲生氏郷、細川三斎(ガラシアの夫)、高山右近(キリシタン)、古田織部など7名の弟子。
織田有楽斎(信長の弟)、千道安、荒木村重の3人を含めて「十哲」と呼ばれる事もあり。

 

そして、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜りました。
(それまで宗易(そうへき)と名乗っていた)。

このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡る事になったのです。

その名声は大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服し、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記したほどでした。

 

深すぎる利休の美学!

 

ここで少し、利休の美学についてのエピソードをお話します。

・ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出しました。

秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。

ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてありました。

余計な物を極限にまで削り、一輪の朝顔から得られる美を追求しました。

秀吉はこの涼やかさに驚き、利休の美学に脱帽したといいます。

 

・秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒きました。

「せっかく掃いたのになぜ」と弟子が尋ねると、「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えたそうです。

 

 

 

切腹を命じられた時も落ち着いていた?!

 

茶の湯に家臣共に熱心だった秀吉と利休ですが、徐々にその関係に亀裂が入ります。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺の自宅に謹慎を命じられます。

前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが助命に奔走しましたがは適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。

享年70。

切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられています。

死後、利休の首は一条戻橋でさらし首にされました。

 

しかし、ここで利休のすごさを表すエピソードがあります。

秀吉の使者が利休の元を訪れ切腹を命じた時も利休は全く動じる事もなく、静かに口を開き「茶室にて茶の支度が出来ております」と言い、使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹したそうです。

今から死ぬのに、使者に最後のお茶を立てるなんて・・・。

本当に利休の懐の深さには、驚かされます。

 

そして、実は秀吉が切腹を命じた理由は未だにはっきりとわかっていません。

様々な理由があり・・

・大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため。(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)

・秀吉と茶道に対する考え方で対立した。

・安価の茶器類を高額で売り渡した。(売僧(まいす)の行い)

・秀吉が利休の娘を妻にと願ったが「娘のおかげで出世していると思われたくない。」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた。など・・

今となっては真相は闇の中です。

 

 

 

まとめ

 

千利休の生涯を2回に渡って、お話しました。

「茶聖」と呼ばれた利休ですが、その発言力は天下人の信長・秀吉を始め大名達を唸らせるほどだったんですね。

切腹を命じられた時でさえ、落ち着いていた利休。

その時、何を想っていたのかは分かりませんが、利休が完成させた茶道の心・美学は何百年の時を経た現在でも、深く根付いています。

知れば知るほど、利休のすごさ・懐の深さがわかりますし、茶道をしていて本当に良かったなぁと思います。

世界からも称賛される「おもてなしの心」

茶道はその「おもてなしの心」を学ぶのに、一番最適ではないでしょうか?

 

 

 

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